Bittersweet

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 この黒く真っ直ぐな髪も、柔らかな白い肌も、もうすぐ俺のものじゃなくなる。
 いや、最初から俺のものなんかじゃなかった。
 だから離れていくのは当たり前のこと。
 自分の思い通りにならないことはわかってる。
 欲しいものが手に入らなくて、ダダをこねて泣くようなガキじゃない。

「伊吹」

 腕の中の彼女が顔をあげ、丸く大きな瞳をこっちに向ける。
 目をそらしたくなる衝動を、今の気持ちを覚られたくない一心で必死に抵抗する。
 このまま、彼女が望むままに、欲しがるものを与えればいい。
 瞼が閉じたのを見計らって、ぷっくりと赤い唇に口付ける。
 全身に走る鈍い痺れ。
 甘い匂いはその唇に塗られたものからだけじゃなく、その髪から、肌から、彼女自身から香って俺のすべてを麻痺させる。
 どうしようもなく好きで、あまりにも大切で。
 ほんの些細な言葉でも壊してしまいそうで。

「伊吹、何考えてるの?」

 少し不安そうな顔で彼女は聞く。
 言葉を選びすぎる自分が、彼女をそうさせるんだとわかってる。
 だけど、あやのがいなくなったときのことを考える俺の不安より、ずっと楽なはずだ。

「目の前の人以外、何を考えろって言うの?」

 最初で最後のバレンタインデーはチョコなんかいらない。
 ずっと、一日中一緒にいたいと俺が望んだ。
 そのほうが、人工的に作られたチョコレートより、ずっとずっと甘い。
 社会的にガキな俺には、彼女にしてあげられることなんて限られていて。
 ただこうして抱き合っていることしかできない無力さが嫌になる。
 そして、彼女を引き止めることもできない弱さも。

 いつもなら満足そうに笑う彼女が、今日は嬉しそうじゃない。
 どうして? わからない。
 女の子は公式をあてはめたって解けないものなんだと、付き合い始めた頃に言われたのを覚えてる。
 そんなこと、わかってる。
 ダメならまた別の手段を考えるまでだ。
 口を開こうとしたとき、彼女が悲しそうに微笑んだ。

「私が伊吹を変えちゃったんだね」

 予想してなかった言葉に、頭の中に準備していた言葉も、作ろうとしていた表情も、どこかへ消えてしまう。
 胸のずっと奥にしまいこんだものを、強引にこじ開けられるような感覚に震える。

「あれから伊吹、本当のこと話してくれなくなっちゃった」

 彼女の白く細いきれいな指が俺の頬に触れる。
 いつも少し冷えている指先。

「つらいとか、悲しいとか、嫌だとか。ねぇ、我慢してるでしょう?」

 耐え切れなくなって、俺は彼女から目をそらした。
 だったら。
 ありあまる負の気持ちをぶつけたとして、結末が変わるのか。
 ましてや彼女の夢を俺の気持ちだけで潰してしまうなんて、考えられない。

 この世で俺がすべてを打ち明けられる唯一人のヒトだと思っていた彼女が、離れていってしまうと聞かされたとき、本当は、転がって泣き喚いてるガキみたいになりたいと思った。
 彼女を縛り付けて、俺しか知らない場所に閉じ込めておきたい。
 どこにも行かないで、ずっとそばにいて。
 あやのにしか話せない俺のこと、聞いて。

 全部吐き出してしまえば、そこには自己嫌悪が残る。
 彼女は俺の手を離して、俺は、まだそこにある手を掴むことを諦めた。
 たとえ再び掴むことができたとしても、彼女は困って、また優しくその手を離すだろう。

 だからもう、何も言わないと決めた。
 ただ、彼女としあわせな時間を過ごしていたいと思った。

  「ごめんね」

 そんなことないよ。
 そう言えばいい?
 残念ながら、俺はまだオトナじゃなくて。
 ここにきて格好つける余裕なんてない。
 ともすれば目の前にいる愛しい人を傷つけてしまうような醜い気持ちが、喉の奥までこみ上げてきている。
 どうしようもないことなんて、いくらでもある。
 だけど、それを無理やりにどうにかしたいと思ったのは、初めてだ。

 優しい言葉も見つからないまま彼女を見ると、黒い瞳が濡れていた。
 そんな彼女を見ていられなくて、俺は目を閉じて口付けた。

 さっきの甘さはもう溶けてなくなってしまった。
 そこに残っていたのは苦い、涙の味。




 その黒く長い髪を見たとき、彼女の姿を思い出したのは嘘じゃない。
 同じような大きな瞳のくせに、可愛くなくて、いつも挑発的に俺を睨んでくる。
 後姿が似てるかもしれないと思ったのは一瞬で、コイツは自分自身を俺に主張してくるヤツだ。
 暑い夏の夕暮れ。
 なんとなくまだいるような気がして、俺はそこへ向かった。
 思ったとおり、お気に入りの場所だという温室の前で、彼女は想いを寄せる眼鏡のひ弱そうな教師と向かい合って、そいつにしか見せない楽しそうな顔で笑ってる。
 教師のほうが俺に気付いて、おいでと手招いた。
 その仕草に振り返った彼女の顔が俺を見て引きつるのも、いつものことだ。
 そばにきた俺に、彼女は手の中にあるものを差し出した。

「これ、北原にあげる」

 受け取ったのは、食べかけで溶け気味の板チョコ。
 彼女は教師と顔を見合わせて笑う。
 これに何かあるんだと想像はできたが、その目が早く食べろと言っているようで、俺は思いきってチョコレートにかぶりついた。
 反応を待っている彼女を睨みつける。
 はじめは怖がっていたくせに、最近はびくともしない。

「ん……」

 口の中に広がる不快感に、思わず噛むのを止めた。
 ふふ、と目の前の彼女が面白そうに笑う。
 彼女の思ったとおりの反応をするのが嫌で、俺は無理やりに口の中にあるものを飲み込んだ。
 あくまで冷静に、表情ひとつ変えてないつもりだ。

「なんだよ」

 まるでなんでもなかったように、そう言ってやる。
 彼女は大きな瞳をいっそう大きく丸く見開いて、次にはつまらなさそうに口を尖らせた。

「やっぱり北原くんだね。すごいなぁ」

 よくわからない褒め言葉を残して、教師は温室内に入っていき、それを見送る彼女はほんの一瞬淋しそうな顔をする。
 たぶんそれは、教師も知らない、俺しか知らない彼女の表情。
 露骨に彼を追うこともできなくて、だけど俺との関係を彼に勘違いされたくない彼女は、すぐに帰るって言うに決まってる。
 本当に手に入れたいものを、相手のことを考えすぎて欲しいといえない彼女は不器用で、前の俺に少しだけ似てると思う。
 手の中にあるチョコレートのパッケージを見ると「99%」の文字が目に飛び込んでくる。そして、その下には「非常に苦いチョコレートです」との注意書きがあった。

「いじめだな」
「そっ、そんなんじゃないわよ。体に良いっていうから北原にあげる」

 じゃあねと口元だけ精一杯笑って彼女は俺に背を向けた。
 俺が苦いって悶絶するのを見たかったんだろうな。
 それにしても、本当に苦い。
 飲み込みきれずに口の中にべったりと残った強烈な苦味が、胃の中に押し込んだものを押し上げそうになるほどで。
 どうせ面白がって買ってみたら、本当に苦くて持て余したんだろう。
 手の中で、太陽熱と体温でどんどん溶けていくチョコレートを、処理に困ってとりあえずカバンの中に放り込むと、なんだか笑えた。

 あやのが俺に残したのは、決して消せない苦い想い。
 それよりも強烈な苦味を俺の口の中に放り込んだアイツは、あやのとは違うやり方で確実に俺の中に足跡をつけていく。
 だけど、まだ俺たちの関係は、このカカオ99%がお似合いだろう。

 END 




最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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chocolate photo by 頽廃


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